Fのさかな19号 鰰(はたはた) 2011年 春 page 19/40
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能登半島のおさかなの情報誌・フリーペーパー
清盛亡きあと、倶梨伽羅峠で、牛の角に松明をくくりつけ敵中に放した木曽義仲率いる源氏軍に大敗した平家は、京を捨て西海へと落ちて行きます。義弟時忠は、都落ちに備え天皇の正当性を証明するための三種の神器や宝器を持ち出し、安徳天皇とともに平家一門は住み慣れた京の都をあとにします。平家が都落ちに自分を道連れしょうとしていることを知った皇位継承権を握る後白河法皇は、比叡山に逃れました。法皇や朝廷にとって大事な三種の神器は奪還できず、朝廷権力の存続をはかるため、のちに三種の神器のないまま、高倉天皇の第四皇子(後鳥羽天皇)に皇位を継がせたのでした。平家に代わって京に入った木曽義仲は平家追討の院宣をくだされ、数日前まで官軍だった平家は賊徒の烙印を押されてしまいます。しかし、やがて中央政界で孤立していった義仲は後白河法皇を幽閉して朝廷の実権を掌握したため、法皇への謀反により源範頼、義経軍に追われ近江粟津で最後をとげたのでした。平家は、日宋貿易の拠点となった大宰府へ落ち延びましたが、衰えた平氏にもはや安住の地はありませんでした。九州をあとにした平家は、讃岐屋島で内裏をかまえ、わずか数カ月で瀬戸内海を掌握し京都奪還をうかがうまでに勢力を回復しますが、木曽義仲を破った源氏は、引き続き平家追討に乗り出し、一の谷の戦いで平家に壊滅的な打撃をあたえ、平家は散り散りになって屋島を撤退し翌年、長門壇ノ浦で源氏軍と激突するのでした。清盛の妻、時子は安徳天皇を抱いて入水。建礼門院は入水したが生け捕われ、多くの平家一門の公達が相次いで海に身を投げました。時忠が守った三種の神器は、安徳天皇とともに海中に沈みましたが、二つは無事に摂り戻され、源氏の武士たちが、神器が納められた蓋を開けようとしたところ、時忠は「あれは内侍所のお渡りであるぞ。凡夫は見てならぬ」と一喝すると、武士たちは、目はくらみ鼻血が流れたので義経は、もとの通りに納めたといわれます。時忠は降伏、多くの平氏一門は捕虜となり、京に姿を現し都大路を引き回されましたが、当時同じ平家でも武士と公家を区別していたため、文官貴族や僧侶については、源頼朝といえども勝手に処分を下すわけにいかず、朝廷に裁定をゆだねられていました。平氏公家である時忠は自邸で謹慎を命ぜられ、神器確保の功績を強調してなりふり構わず助命工作をするのですが、かつて「平関白」とまでよばれた平大納言時忠は能登配流となるのでした。こうして清盛亡きあと、坂を転げ落ちるように没落していった平家一族は、源氏との対立により栄華は藻屑と消えるのでした。このあと、源義経と深くかかわりあいをもち、能登で人生を終わらせた時忠がもたらす「能登平家物語」とは。次回をどうぞお楽しみください。源平合戦図屏風(右隻) 埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵◇参考資料 ウィキペディア 小学館週刊ウィークリーブック 真説 歴史の道24小学館19 Fのさかな Spring 2011